今日5

この間数分間の間だけれど、意識を失った。人は簡単に意識飛ぶんだなあって思った。両親が心配して家に来てくれた。倒れてから、「漫画みたいな出来事だなあ。」って思ってたけど、ふと思い出すと涙が出てきた。やっぱ怖かったのかあと気づいた。記憶がないっていうこと、そしてそのまま死んじゃうかもしれないことが怖かった。ぶっ飛んだ想像かもしれないけど、十分にあり得ることだと思う。

休んでる間、死について考えるようになった。明日死ぬとわかっていたら今日の生き方は変わる。毎日気負うことはなくても、ふとしたときにでも思い出して、それまでの日々を振り返ることにする。

自分が愛されてて帰るとこがあるのを幸せに思う。将来どうなるかわからないけど、今心配しても意味ないし、疲れるだけで意味がない。自分をよくするための未来を考える。

倒れてからいろんな大人の方と話したけど、どうやら私は真面目らしい。気の抜きどころが難しい。昔からちょいちょい真面目だと言われてきたが、どこがそうなのかは未だによくわかっていない。わかるのは数十年後なんだろうと話していたら、「そうかもしれないね笑い私も未だに悩んじゃう笑。」的なことを四十を超えた事務のおばさまに言われてしまった。人生短いけど長い、ああ怖いなあと思いますね生きるのが。常に思ってる気がする。まあそんなことを思っても意味がないから、普通にやりたいことやって生きていきたいと思います。そういやリアリストだとも言われた。それは父親譲りだと言っておいた。不思議と笑えてしまった。

今日4

日々はとにかく早く過ぎる。朝が来て遅刻しないように職場や学校に行き、時間が過ぎ、夕方となり、だらだらと過ごし、眠るといつの間にか朝が来る。あれっと思っていたら、一週間が過ぎ一ヶ月が過ぎ一年そして、人生が終わる。極端な話だが、下手をするとそうなると思う。目標を持って!時間を大切に!なんてほんと難しい。でもそうしないと世の中の何にも考えてない人の一人になってしまう。それが幸せではないとは言わないが、少なくとも私は、考えて生きる人間になりたい。

今日3

自分より遙かに年上の人に出会うと、何か強い生命力エネルギーみたいなものを感じる。もちろん誰にでもではない。そういう人に出会ったときは、なぜ今も生きていられるのかと問いたくなる。そんな問いは問い詰めれば一生かかってもわからないのだろうから、この話はおいておく。

自分の尊敬に値する人に出会うと、気づかぬうちにいろんなことを質問しようとする。

今日は忘れぬうちに書き留めておく。

「食べること、作ることを嫌だと思ったら、死ね!」食べていくから生きていられる。ありがたいこと。食べなかったら死ぬしかない。

「悲しむな、楽しめ。」

「なんとかなる。わからない未来のことを不安がってたって意味ない。」

いろんなアドバイスも勿論だが、そんな人に直接会って話をすることが、とても身になる。

「思い続ければ巡り巡ってくる。」

「語学は使ってなんぼ」

「可愛がられる努力」

尊敬できて自分が何かを得られる、人との出会いがとても嬉しい。

今日2

 今日は愛についての話。

家族と住んでるときも、離れて暮らす今も、なぜか悲しみとか虚無感とかを感じる。自分には、無意識に出てくる「助けて、お願い。」なんて言葉がある。私は誰に助けてほしいんだろう。何を、なにから助けてほしいんだろう。それの一つの案として、自分一人を思ってくれる、愛してくれる、いわゆる恋人なんてやつを考えてみた。

自分自身を愛してくれるなんて、恋人である必要なんてないだろうという意見も当然だと思う。でも私は恋人という概念について考えたい。

家族とも師弟とも友情ともその他諸々の愛と、区別すべきではないだろうがいろいろと違ったものが含まれていると思うのだ。だって、私が感じている様々な感情が何かしらの愛によって満たされるものならば、離れて暮らす今、そんな感情はなくなっているはずだろう。

恋人とは、「恋しいと思っている異性で、多く相思相愛の間柄。」「配偶者以外、肉体関係を持つ」とか書いてある。恋しいという感情は何か家族やそれ以外のひとに感じる者ではないだろう。「愛しい」なんてのもそうではないか。とにかく、家族とか友達とか年上年下いろいろそういう人からではなく、全く知り得もしなかった他人か、自分という人間を認識してもらい、最終的には愛を注いでほしいのだ。

改めて書くと、私は誰か認めてもらいたいと感じていることもわかる。私だけでなく、世の中の人々皆が思うことだろう。無意識にでも感じているはずだ。

プラトニックだったり普通だったり激しめだったり、いろいろあるが、私は愛を感じたいのだ。もう感じていたとしても気づいていない。そうだと断言できない。だからこそ愛を深めていく段階を、常に愛を、感じたいのだ。

ここまで来て、愛とは何か、というと、まあ自然に涙でも出てくるんでないだろうか。

私は知らない。

今日

 何もない休日には何の意味もないような一日を過ごしてしまうことが多い。何の意味もないと思っているのは自分だけかもしれないが。そういう休日というのは、なぜなのかはわからないがふさぎ込みがちになる。ということで、今日数分をかけて思想していたことについて書いておこう。これはただの日記だから、誰も見てはいない。意味不明なことを書いても、誰も文句は言わない。

 自分とはいったいなんなのだろうと考えることがよくある。何者なのか、ではなくなんなのだろうか、だ。者と形容する以前の問題だ。先日とあるサークルのイベントに行ってきた。まあやはり大学生になったからなのか、ドライな人が多く、少し居心地が悪かった。特別優しくも特別冷たくもないそんな人が多かった。まあ初対面なのだから仕方がないだろう。と割り切っておいた。でも、こんな時昔の自分ならもっと感情的になっていただろうと思う。こないだ読んだ本にこう書いてあった。「大人になるにつれて、感情は鈍化していく。」著者が言いたかったこととは違うかもしれないが、私が感じたことも間違ってはいないだろうと思う。普通に成長していくと、何事にも割り切ることが多くなる。期待外れだったり、予想外の出来事が起きたり、理不尽なことが起きたり。そうやって自分の感情を揺さぶり、この後の自分を変えてしまうような、そんなことが起きたときに、何事もなかったかのようにするために、人はそれらを割り切って生きていくのだろう。それがいいのかわるいのかは、わたしにはまだわからない。

 自我を強く持つようになってから気がついたが、私は案外目立ちたがりのようだった。ステージに立つことに憧れがある。しかし、おそらくこれは一般的なものなのだろうと思っている。今現在どこかのステージにたっている誰かさんのような努力をしていないのが、これを証明する証拠だろう。しかし、本当に、何千何万もの声援を受け光を浴び、ステージに立つのは夢である。しかし、そんな風な夢を持っているにもかかわらず、私は怠惰なときを多く過ごしている。本当に何かに魅了された者は、私のような甘っちょろい考えはない。その目標、夢に向かって一直線のはずだ。私のように、あれもこれもと手を出していることはないのだろうと思う。ここまで読んでくれたらわかるのではないだろうか。私は一直線に向かっていける、そのなにかを見つけたいのだ。この思いはきっと世の中の多くの人が、思っていることだろう。それが見つかればどれだけいいことか!きっとつらくも苦しい日々が来たとしても、乗り越えていけるのだろう。嗚呼、どんなにいいことか。

 

 先ほどまでいろいろと言っていた私だが、これらの主張を肯定するとともに、否定したい。夢や目標、希望勇気愛情その他諸々なんなんだ、一体。自分には夢がない目標がないなんぞ言ってる意味があるのか!?ちゃんと考えてみろよ!やりたいことあるなら、それに向かってけよ!失敗するのが怖いんだろう?自分の中の本気がわからないんだろういつ本気になっていたのか、そもそも本気になっていたのかもうわからないよなあ。でもそう言って自分を追い込みすぎじゃないか?ああもう何を言いたいのかわからなくなってきた。肯定も否定もしていないじゃないか。もうこの話は終わりだ。

 テレビをつけたら、十数人の人たちが同性愛者の結婚の権利について議論していた。私はゲイだろうがレズだろうがバイであろうが、好きになったやつといちゃこらしてセックスして時には喧嘩とかもして、愛し合えばいいと思う。だが世の中にはそう許してくれないやつもいるわけで。社会的なんとかがどーたらこーたらと言っていた。そいつの意見も確かにそうだ。私はそいつの意見に賛成な訳ではないが、そいつがおかしなことを言っていると非難されるのもおかしいと思う。そいつは社会のためを思って言っているのだから、いいじゃないか。まあ、そんなことを言っていたら、よい議論は交わされない。せいぜいこの国のためにも頑張ってほしい。